私はやはり自分がかわいい。

あらすじ

子どもを狙った連続誘拐殺人事件が世間を騒がせていた。
町内に住む児童が被害にあったことで、富樫(とがし)の家の近所にもマスコミが押しかけている。

他人事としか思っていなかった富樫だが、息子の部屋で被害者の父親の名刺を見つけ、事件に息子がかかわっているかもしれないと疑いを持ち始める。

歌野晶午作品、2連発。続けて読んだら、書かずにいられなかった。

『葉桜の季節に君を想うということ』と共通しているのは、長い階段の途中に現れた踊り場みたいなラスト。
この一瞬はホッと息をつけるけど、困難はこの先もまだまだ続くのが分かる。

それでも、安心して本を閉じられる。圧倒的な説得力がある。

「顔見知りのあの子が誘拐されたと知った時、驚いたり悲しんだり哀れんだりする一方で、わが子が狙われなくよかったと胸をなでおろしたのは私だけではあるまい」

この作品の最初の1節だ。
これは心して読まなければと思ったけど、読み進めたら、こんなのまだまだ序の口だった。

富樫は心から息子を信じきることができない。
息子が本当に事件に関与しているなら、自分は父として何をすればいい? 逮捕されたら他の家族はどうなる? 仕事は? と心配の種はあっちへこっちへ飛び散っていく。

心配する一方で、巻き込まれただけかも、思いすごしかも、と都合のいい考えにすがろうとする。
息子が無関係であってほしいと願いながら、気を抜くと、考えは保身へ走ってしまっている。

この作品は、大半の人が直視することを避けている恥部をグリグリえぐり出してくる。
疑いと信じる気持ちの間で葛藤し混乱していく富樫と一緒に、読んでいるこっちもあっちへこっちへ振り回されっぱなしだった。

そして、『葉桜の季節に君を想うということ』に通じる、予想もしない“読書体験”もある。

書きたい、語りたい。
でもこれも、できるだけ事前情報を入れずに読んでほしいなぁ。